遣隋使と遣唐使
600年に多利思北孤が遣隋使で派遣されたと『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には記されているが、『日本書紀』にはこれに関する記述はない。一般的に有名な小野妹子の遣隋使節派遣は607年である。遣隋使は合計5回派遣された。度重なる高句麗遠征に失敗した煬帝が618年に殺害されて中国大陸では混乱状態が続く。
しかし、唐の第二代皇帝の李世民によって「貞観の治」が訪れる。630年に遣唐使として犬上御田鍬が派遣された。また、唐からは高表仁が来朝、冊封関係を要求したが朝廷はそれを拒否している。608年の遣隋使派遣に参加しした者たちの帰国が632-640年に実現し、その内の僧旻・高向玄理は中大兄皇子の政治顧問として645年からの大化の改新に貢献した。658年の阿倍比羅夫による蝦夷征伐を経て、朝廷は唐とその冊封関係にあった新羅による侵略で660年に滅亡した百済の復興をめざして唐の水軍と干戈を交えることになるが、663年の白村江の戦いで敗北を喫した。それ以後、朝廷は「安全保障」に目覚め北九州に防人、大宰府に水城をそれぞれ設置する。庚午年籍の作成を命じた天智天皇の皇位継承を巡って672年に壬申の乱が起きて、翌673年に天武天皇が即位すると天皇を中心とした中央集権体制が確立して「皇親政治」の時代が始まる。
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「武韋の禍」で混乱していた唐との交流は701年から再開、唐への朝貢は続けることで日本という国号が認められ、大宝律令の完成で日本の律令国家体制が確立していく。多くの留学生(るがくしょう)・留学僧を唐に派遣し、唐の先進文化を吸収する一方で緊迫した東アジア情勢を把握することも遣唐使派遣の目的になっていく。